それから、一年が過ぎた。
マデリンの暮らしは、以前とほとんど変わっていなかった。
森で薬草を採る。
薬を作る。
本を読む。
魔法を研究する。
ときどき村へ行き、作った薬を売る。
そして必要なものだけを買い、また森へ帰る。
百年以上続けてきた生活。
静かで、穏やかで、変化のない毎日。
ただ――この一年、マデリンはときどき思い出すことがあった。
黒髪をポニーテールにした、赤いマントの少女。
一緒に食事をして、一緒に魔物を倒して、たった一日だけ一緒に過ごした人間の少女剣士コーデリア。
もう会うこともないだろう。
そう思っていた。
そのはずだった。
――コンコン。
ある日の昼下がり。
マデリンの家の扉が叩かれた。
「?」
マデリンは読んでいた本から顔を上げた。
珍しい。
こんな森の奥まで訪ねてくる者など、ほとんどいない。
コンコン。
もう一度。
マデリンは立ち上がり、扉へ向かった 。
そして開ける。
「久しぶり、マデリン!」
そこにいたのは――。
「…………」
マデリンは目を瞬いた。
黒髪のポニーテール。
白い服。
赤いマント。
腰には剣。
そして、あの屈託のない笑顔。
「コーデリア?」
「覚えててくれた!」
「……どうしてここに?」
「探したんだよ」
「私を?」
「うん!」
コーデリアは笑った。
「いやあ、苦労したよ。村の人に聞いても『森のどこかに住んでる』くらいしか知らないんだもん」
「よく見つけたね」
「三日かかった」
「三日?」
「森の中で二回迷った」
「…………」
「そんな目で見ないでよ」
マデリンは小さく息を吐いた。
「入る?」
「いいの?」
「ここまで来たんだから」
「ありがとう!」
一年ぶりに再会した二人は机を挟んで座った。
マデリンが淹れた薬草茶を、コーデリアが一口飲む。
「……苦い」
「身体にいいよ」
「もうちょっとおいしくならない?」
「良薬は口に苦し」
「そういうもの?」
「そういうもの」
コーデリアがわざわざ自分を訪ねてきた理由を、マデリンはまだ聞いていない。
「それで」
マデリンは尋ねた。
「私に何か用?」
「ああ……うん」
コーデリアの表情が変わった。
先ほどまでの明るい笑顔が消える。
「マデリン。この一年で、魔物が増えてることは知ってる?」
「少しは」
マデリンにも心当たりがあった。
森の中でも、以 前なら見かけなかった魔物を見るようになった。
薬を売りに村へ出たときも、そんな話を耳にすることが増えている。
「私の村もなんだ」
コーデリアが言った。
「前は、魔物なんてほとんど出なかった。でも最近は違う」
畑の近く。
街道。
森。
人の生活圏にまで魔物が現れるようになった。
コーデリア自身も、この一年で何度も討伐に出たという。
「今のところ、大きな被害は出てない。でも、このままだったらいつか……」
コーデリアは拳を握る。
自分の村。
家族や友人。
昔から知っている人たち。
その人々が暮らしている場所が、少しずつ危険にさらされている。
「それで調べたんだ」
「何を?」
「魔物のこと」
コーデリアは鞄から地図を取り出した。
机の上に広げる。
いくつもの印がついている。
「この一年、魔物が出たと言われる場所を、分かる範囲で調べてみた」
マデリンが地図を見る。
「ここも、ここも、それから、この辺りも」
コーデリアの指が地図の上を動く。
そして。
「気づいたんだ」
指が止まった。
「北へ行けば行くほど、魔物の活動が活発になってる」
「…………」
マデリンの表情が変わった。
「北?」
「うん」
コーデリアは気づかない。
マデリンが、その一言にわずかに反応したことに。
「偶然かもしれない。でも、私はそうじゃないと思う」
コーデリアは地図を見つめる。
「北の地に、何かある」
魔物を呼び寄せている何か。
魔物を活発にしている何か。
あるいは、もっと大きな何かが起ころうとしているのかもしれない。
「だから、私は北へ行く」
「一人で?」
「そのつもりだった」
そこでコーデリアはマデリンを見る。
「でも……」
少しだけ言葉に詰まった。
そして、真っすぐマデリンの目を見る。
「マデリンのことを思い出したんだ」
「私?」
「うん」
一年前、初めて一緒に戦った魔物退治。
たった一度の共闘だった。
それでもコーデリアは覚えている。
自分が前へ出れば、マデリンが後ろから援護してくれた。
マデリンが魔法で敵を崩せば、自分は迷うことなく踏み込めた。
ほとんど言葉を交わさなくても、お互いが何をしようとしているのか分かった。
「私、あれから何人かの人と一緒に戦ったよ」
コーデリアは笑った。
「でも、マデリンと戦ったときみたいにやりやすかったこと、一度もなかった」
「…………」
「だから」
コーデリアは立ち上がった。
「マデリン」
そして頭を下げる。
「お願い」
マデリンは黙っている。
「私と一緒に、北へ行ってほしい」
「…………」
「何があるのか分からない。どこまで行くことになるのかも分からない」
危険な旅になるかもしれない。
何か月かかるかもしれない。
もっと長くなるかもしれない。
「でも、このまま放っておけないんだ」
コーデリアは顔を上げる。
その目には迷いがなかった。
「私の街を守りたい」
マデリンは、その顔 を見つめていた。
「それに、私の街だけじゃない。もし本当に北で何かが起きてるなら、困る人はもっと増える」
だから行く。
自分に何ができるのかは分からない。
北の地に何が待っているのかも分からない。
それでも。
「原因を見つけたい。そして、私にできることがあるなら、なんとかしたい」
コーデリアはもう一度言った。
「力を貸して、マデリン」
(これは‥‥‥)
マデリンは、昔のことを思い出したのであった。
北の地。
その言葉を聞いた瞬間から、マデリンの胸には一つの記憶が蘇っていた。
百年いやそれより前、およそ百五十年ほど前。
彼女は一度、北の地を旅したことがある。
一人ではなかった。
仲間がいた。
三人の――人間の仲間が。
◇ ◇ ◇
「おーい、マデリン! 早く来いよ!」
「ケヴィン、うるさい」
「なんだよ、元気がないなあ!」
「朝からあなたが元気すぎるの」
「いいじゃないか。今日も生きてるんだから!」
先頭を歩きながら笑っていた青年。
剣士――ケヴィン。
陽気で、お調子者で、よく笑う男だった。
深く考えているのか、何も考えていないのか分からない。
危険な場所へ向かっているというのに、いつも楽しそうだった。
「ケヴィン! 先へ先へ勝手に行くな!」
後ろから野太い声が飛ぶ。
「また始まったよ」
「聞こえているぞ!」
大柄な男が槍を担いで歩いてくる。
槍の騎士――ガレス。
四人の中では最も大柄で、頑丈な鎧を身につけていた。
性格は真面目
「お前、もう少し緊張感を持て!」
「緊張して強くなるなら、いくらでも緊張するけどなあ」
「お前という奴は……!」
いつもの言い合い。
「二人とも」
静かな声が割って入った。
「朝から喧嘩しないでください」
僧侶――エレノア。
穏やかで知的な女性だった。
治癒術や神聖術に長けているだけでなく、古い文献や魔物についての知識も豊富だった。
四人の中では、最も冷静な人物だったかもしれない。
「ほら、エレノアもこう言ってる」
「そもそも原因はお前だ!」
「ガレス」
「……すまない」
エレノアに名前を呼ばれただけで、ガレスは黙る。
マデリンはそれを見ながら歩いていた。
「マデリン、何笑ってるんだ?」
「笑ってない」
「今、絶対笑っただろ」
「笑ってない」
「俺には分かるぞ」
「ケヴィン」
「なんだ?」
「うるさい」
「ひどい!」
そんな旅だった。
◇ ◇ ◇
当時、北の地では魔物の活動が活発になっていた。
村が襲われ。
街道が封鎖され。
人々が姿を消した。
しかし、人間たちはその原因を正確には把握していなかった。
情報が届く頃には、すでに村そのものがなくなっている。
そんなことさえあった。
やがてケヴィンたちは、一連の異変の背後に存在するものへたどり着いた。
魔王ゼルディオン。
強大な魔力によって魔物たちを従え、北の地のさらに奥深くに潜んでいた存在。
もし放置していれば、いずれ魔物たちは北から南へあふれ出し、人間たちの国へ押し寄せていただろう。
だが――。
ケヴィンたちの旅を知る者は、ほとんどいなかった。
ただ、異変が起こった原因を探るべく四人が旅をし、調べ、そして魔王へたどり着いた。
「ここまで来たな」
最後の戦いを前に、ケヴィンが言った。
ガレスが槍を構える。
「油断するな」
「分かってるって」
「お前の『分かっている』ほど信用できない言葉はない」
「ひどくない?」
「事実です」
エレノアまで言った。
「エレノアまで!?」
マデリンは杖を構える。
「ケヴィン」
「なんだ?」
「死なないでね」
ケヴィンが振り返る。
そして笑った。
いつもの笑顔だった。
「もちろん」
魔王ゼルディオンとの戦いが始まった。
激しい戦いだった。
マデリンの長い人生の中でも、あれほど強大な敵と戦ったことは数えるほどしかない。
ガレスが前線を支えた。
巨大な槍でゼルディオンの攻撃を受け止め、仲間たちを守った。
エレノアが傷を癒した。
防護術を張り、ゼルディオンの魔力を分析した。
マデリンが魔法を放った。
幾重もの攻撃魔法を重ね、ゼルディオンの力を削った。
そして、最後に前へ出たのはケヴィンだった。
「マデリン!」
「分かってる!」
魔法が炸裂する。
ゼルディオンの体勢が崩れる。
「ガレス!」
「行け!」
槍が魔王の攻撃を弾く。
「ケヴィン!」
エレ ノアの術が彼を守る。
三人が作った、ほんのわずかな隙。
そこへ。
「うおおおおおっ!」
ケヴィンが飛び込んだ。
剣が閃いた。
そして――。
長い戦いは終わった。
魔王ゼルディオンは倒れた。
世界は救われた。
だが、世界は、そのことを知らなかった。
◇ ◇ ◇
盛大な凱旋などなかった。
王から勲章を与えられることもなかった。
歴史書に「勇者ケヴィンと三人の仲間」と記されることもなかった。
彼らが魔王を倒したことを知る者は、ごくわずかだった。
「まあ、いいんじゃない?」
ケヴィンは笑った。
「何がです?」
エレノアが尋ねる。
「別に誰も知らなくたってさ。俺たちが有名になるために戦ったわけじゃないだろ?」
ケヴィンは空を見上げた。
「魔物が減って、みんなが普通に暮らせる。それでいいじゃん」
ガレスは何も言わなかった。
エレノアは微笑んだ。
マデリンも、それでいいと思った。
四人が知っていれば、それで十分だった。
◇ ◇ ◇
旅が終わったあと、四人はそれぞれの道へ進んだ。
それでも、完全に縁が切れたわけではなかった。
特にケヴィンは、ときどきマデリンを訪ねてきた。
『マデリン! 魔物退治に行こうぜ!』
『嫌』
『即答!?』
『この前も行った』
『あれ、三年前だぞ』
『つい最近でしょう』
『エルフの時間感覚で話すな!』
結局、マデリンは何度か付き合った。
魔物を退治した。
村 を助けた。
一緒に食事をした。
旅をした頃のように、くだらない話をした。
だが、人間の時間は、マデリンの時間とは違った。
ケヴィンは歳を取った。
ガレスも。
エレノアも。
マデリンだけが、ほとんど変わらなかった。
そして、ケヴィンは死んだ。
魔物に殺されたわけではない。
戦いで命を落としたわけでもない。
ただ、人間として生き、人間として歳を取り、そして人生を終えた。
マデリンにとっては、あまりにも短い時間だった。
それからだった。
彼女が、人間の世界から距離を置くようになったのは。
必要なときだけ村へ行った。
深く人と関わることはしなかった。
それでよかった。
百年以上、そうやって暮らしてきた。
◇ ◇ ◇
そして――今。
マデリンの目の前に、コーデリアがいる。
「北へ行きたいんだ」
コーデリアは言った。
「このまま放っておいたら、もっとひどくなるかもしれない」
コーデリアは真っすぐマデリンを見る。
「だから調べたいんだ」
その目。
その表情。
その言葉。
『困ってる人がいるんだ。放っておけないだろ?』
百五十年前の声が重なる。
(ケヴィン……)
似ている。
やはり似ている。
顔ではない。
性格だって、まったく同じではない。
それでも、人のために危険な場所へ行こうとするところ。
無謀に見えて、決して何も考えていないわけではないところ。
そして何より、誰かを助けることを、特別なこと だと思っていないところ。
「マデリン」
コーデリアが言った。
「私と一緒に来てほしい」
北へ。
その言葉が、マデリンの胸に重く響く。
北の地。
百五十年前。
ケヴィン。
ガレス。
エレノア。
そして――。
ゼルディオン。
(まさか……)
マデリンは考える。
(ゼルディオンが?)
あり得ない。
確かに倒した。
自分はその場にいた。
その最期を見届けた。
だが、魔物が活発になっている。
そして、その中心が北にある。
百五十年前と同じ。
(何らかの方法で復活した?)
そんなことが可能なのか。
分からない。
あるいは――。
(ゼルディオンとは別の何か……?)
それも分からない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
確かめなければならない。
百五十年前に旅した、あの場所へ行って。
自分の目で。
「…………」
マデリンはコーデリアを見る。
一年前、偶然出会った少女。
もう二度と会うこともないと思った。
だが、コーデリアは戻ってきた。
百五十年前の仲間によく似た少女が。
百五十年前に旅した北の地へ。
自分を誘いに来た。
(これは……)
偶然なのだろうか。
マデリンは長く生きている。
運命という言葉を簡単に信じるほど、夢見がちではない。
けれど。
(これは、運命なのかもしれない……)
そう思った。
ケヴィンが死んでから、百年以上、止まっていた何かが再び動き始めよ うとしている。
ならば、答えは一つしかなかった。
「行く」
コーデリアが目を見開く。
「え?」
「一緒に行くよ。北へ」
「本当!?」
「うん」
コーデリアの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとう、マデリン!」
マデリンは小さく頷いた。
コーデリアは知らない。
マデリンが北の地を知っていることを。
百五十年前、そこを旅したことを。
かつて魔王ゼルディオンと戦ったことを。
そして、その魔王を、仲間たちと共に倒したことを。
まだ話す必要はない、そうマデリンは思った。
ゼルディオンが関係していると決まったわけではない。
ただの偶然かもしれない。
だから確かめよう。
北へ行って。
自分の目で。
「三日後に出発しよう」
マデリンが言った。
「三日後?」
「準備が必要だから」
「分かった!」
コーデリアが笑う。
その笑顔に、ほんの一瞬百五十年前の青年の笑顔が重なった。